豊かな自然に包まれて、どこかおおらかな風情漂う、和歌山県岩出市の根來寺。その境内に、伝統の根來塗を受け継ぐ工房があります。にこやかに出迎えてくださったのは、根來塗の塗師として活躍する伊藤惠さん。根來寺で生まれた根來塗について、お話を伺いました。
「根來寺の歴史は、1130年に和歌山・高野山に覚鑁(かくばん)上人が建立された伝法院に始まります。その後この地に移り、中世に最盛期を迎えました。建立当初から、お寺の仏具や食器として愛用されてきたのが根來塗の漆器です。」

根來塗といえば、ハッと目をひく美しい朱漆に洗練されたシンプルなフォルムが印象的です。「丈夫で軽く、口あたりや手ざわりがやさしい。熱いものを入れても手にやさしいんです。また、お寺で使いやすいよう実用性は抜群です。」この朱色は、かつては金に匹敵するほど貴重で、神社建築の塗料ともなった顔料「丹(に)」を使うからだそう。神秘的な朱色の根來塗は高僧や貴族にも愛され、その名を知られるようになりました。
ところが、豊臣秀吉の紀州攻めで寺院は大半が焼失したため、根來塗の職人たちは全国に散らばり、その技法が全国へ広がったと言われています。

紀州攻めから約400年もの間途絶えてしまった、根來塗の伝統。岩出では、幻とも言われた根來塗の技法を復興させる動きが2000年から始まりました。ちょうどその頃、中学校で美術を教えていた伊藤さんは、職業体験授業で根來塗に出会います。
地元にこんな素晴らしい伝統産業があったことに感銘を受け、「この伝統を受け継ぐ一人になりたい」と思うようになり、それから中学校の講師を続けながら、漆塗りを学んでいました。これがとても愉しく、気づくと無になって塗っていて、だんだん自分の気持ちに寄り添い、創作に没頭するようになりました。」
その後、岩出町伝統伝承事業根來塗指導員となられた伊藤さんは、根来の地で制作する根來塗の塗師として活動を始めました。「伝統を大切に守り伝えることは大前提ですが、幼い頃からものづくりが大好きだった私は、ひと匙だけ新しいことや自分らしさを加えたくなります。何かアイデアがひらめくと、ワクワクするんです。」

驚くほど手間と時間がかかるという根來塗のつくりかたを、伊藤さんがお話ししてくださいました。「まずは堅牢な下地づくりです。木地にたっぷりと生漆を塗ってしみ込ませる作業を、3回以上繰り返します。次に、口もとなど欠けやすい箇所に布を着せ、『錆づけ』という作業で布着せ部分をカバーします。ようやく下地ができあがったら、そこから黒漆をさらに3回以上塗り重ねる『地塗り』をします。黒漆が乾いたら、漆を研ぎ、また黒漆を塗って、研いでという作業を、ひたすらに。」表裏3回ずつですから、「塗って研ぎ」の作業だけで6回も!乾いてもすぐには研げず、硬く締まるまで待ってから。根気と愛情、時間をかけずには到底できない作業です。
最後に、朱漆を刷毛で塗って仕上げます。1度塗りで失敗はできない朱を塗る伊藤さんの瞳が光り、あたりに清澄な空気が満ちるよう。器の完成までに3カ月から半年、木地のデザインの構想から手がける場合は、2~3年かかることもあるのだとか。刷毛目が残る朱漆の表情が、美しい手仕事の尊さを伝えてくれます。

このように丁寧に薄い漆層を重ねるからこそ、簡単には壊れない丈夫な根來塗の器ができあがります。使い続けるうちに朱漆はつやを増し、朱漆がすれて下地に塗った黒漆の層が顔を出すのですが、擦れて現れた文様には同じものが二つとない器の個性となります。用の美と言われ、その様が愛される由縁です。使うほどに美しく、進化していく−「人生とともにできる器」。漆器の楽しみ、醍醐味です。
「根來塗を象徴する形として、『眉間寺椀(みけんじわん)』という器があります。眉間寺は、かつて東大寺の末寺であったお寺で、そこに伝わった器だったことから、その名で呼ばれた型の名です。元々は天目台に乗せて運ぶ椀で、台に載せても器だけでも美しく映える考え抜かれたフォルム。時代を超えてもなお、そのシンプルで手になじむデザインは、むしろ新鮮に感じます。」
伊藤さんはまた、「ご誕生から人生に寄り添い、分身のように愛せる根來塗を」と、ベビーやお子様向けのカトラリーもつくられています。お子様の成長とともに味わいを増す根來塗は、お手入れをしながら長くつきあっていく喜びも伝えてくれるもの。ご出産やお誕生のお祝いにもおすすめです。

知るほどに魅了されていく、根來塗ワールド。伊藤さんは、「もっと多くの方に知ってほしい」と様々な取り組みに挑んでいます。「参拝者の方々のくつろぎの場になればと、テイクアウト専門のカフェ『NEKORO CAFÉ』を境内駐車場にオープンしました。和歌山県産フルーツを使ったパフェやドリンクが自慢で、私の漆器や和歌山のおみやげもお買い求めいただけます。」伊藤さんの活躍は国内に留まらず2022年には、英国でのチェルシーフラワーショーへの展示のため、東大寺に伝わる盆を模した永仁盆の制作に取り組むなど、活躍の場は海外へも広がっています。

「まだまだ未来に向けて、やりたいことがいっぱいです!」と笑顔を輝かせる伊藤さん。「漆の木を和歌山で育てたくて、自治体や企業と話し合いを進めています。そして、いつかこの地で精進料理を楽しんでいただけたら嬉しいなと、夢を膨らませています。」根來塗を楽しめるアイデアがたくさん。伊藤さんの夢は広がり続けています。
人にも自然にもやさしく、長く使い続けられる漆器は、日本が誇るLOHAS(ロハス)な器。毎日の暮らしのなかに、「用の美」に彩られた個性ある器を迎え、豊かな時を愉しんでみませんか?

Profile

根來塗 塗師 伊藤 恵さん

一般社団法人根来塗振興会 紀州根來塗 初根公房主宰。和歌山県岩出市生まれ。奈良芸術短期大学日本画コース卒業。岩出町伝統伝承事業根來塗指導員養成講座を受講後、塗師として根來塗の普及に務める。根來寺境内に工房を構え、作品づくりを行うかたわら、ワークショップなども開催。

Information

根來寺で、伊藤さんの作品を出展予定!
NEGORO ART WALK
-根來アート散歩-

■10月28日(土)・29日(日)、
 11月3日(金・祝)〜5日(日)

根來寺や岩出の主要スポットに、地元にゆかりのあるアーティストたちが作品を出展します。ぜひお出かけください。

根來寺や岩出の主要スポットに、地元にゆかりのあるアーティストたちが作品を出展します。ぜひお出かけください。

2023年7月現在の情報です。